時空の歪みin家族

 兄から兄妹のラインに送られてきた兄一家の家族写真は、どうしようもない気持ちを運んできた。母はぱっと見ではそれ程老いが分からないけれど、父はよくわかる。母もきっとよく見たらそうなのかもしれない。よく見るのが怖くてみることができない。父のこともじっくりとは見られない。親の老いを直視したくないのだ。子である自分が成長せぬ間に、親が老いる。これほど恐ろしいものはない。さらに悪いことに子は成長しないどころか巨大な粗大ごみ、または巨大な負債へとマイナス大進行している。兄はラインに写真を送るようなマメなタイプでなかったのに、いつの間にか「家族サービス」をするようになっていた。兄は大人になっていたのだ。

 

(ずっと昔、ぶっきらぼうな兄の下宿先のアパートに両親と共に行くことがしばしばあった。その頃から会話はなかったが、兄を見られるのが楽しみだった。「会う」という言葉を使うのが適当でなく「見る」である気がするほどにぎこちないものだった。一瞬、そんな頃に戻りたいと思ってしまったが、今と比べ物にならないほど苦しかったのだ。「絶対に過去に戻りたいと思いたくない。そんなことを思ったら苦しかったころの自分が可哀そうだ」というのがモットーだった。この考えは絶対だった。それなのにふと過去を懐かしんだ自分が恐ろしい。あの苦しさを忘れてしまったのだ。「忘れてはいけない」という気持ちは覚えているが、苦しさ自体はほぼ忘れかけている。そのことに呆れている。)

 

 対して自分はというと、言うまでもなく大人になれていない。ACという意味ではない。社会的に役目を果たしていないのと、家族という巣にぶら下がっていつまでも飛び立たっていない罪悪感が酷い。内面は(これでも)穏やかになった。「精神的にいくらかマシになった」、これがここ数年の口癖である。精神が改善した鍵は焦りの喪失だろう。けれど、つまりそれは顔の皮が厚くなったのだ。状況だけ見ればむしろ悪化している。親に負担をかけるこんな状況で精神がましになっているだなんて、屑の開き直りとしか解釈できない。サイコパスなのかもしれない。しかし、精神を病んで状況が改善するわけではないことも嫌と言う程分かっている。

 

(こんなに深夜なのにカラスが鳴いていて、「カラスの生態を何も知らないな」なんてどうでもいいことが頭をよぎったのに気が付き、そういう風に永遠に思考がそれ続けるから何もうまく考えられないのだと思った。思考を飛ばすことだけは前よりも得意になった気がする。都合のいい記憶喪失に拍車がかかった。)

 

 「変わらないものはない」「執着することは好ましくない」「子供の成長を寂しがるのではなく喜んでほしい」という考えがあった。そんな自分に直面する親の老い。親の老いを、どう捉えればいいだろう。喜ぶ必要はさすがにないと思うが、自分が老いゆく人なら、悲しまれたくない気がした。なのに写真を正面から見つめることができない。自分が立派な大人なら、こんなことは思わなかったかもしれない。親と向き合えないのは、どうしようもない後ろめたさがあるからだ。